みんなで発展した!: 神の愛と、エゴ版の愛 (3)

ともしびメイド バーテンダー
ともしびメイド
ともしび茶屋みんなで発展した!
神の愛と、エゴ版の愛』という話題で盛り上がっているテーブル(3ページ目)のもとに来た!
仲間たちは、あなたの顔をうれしそうに見つめ、わかちあいを待っているようだ…
ともしびメイド
このページでは、こんなお話がされているようです。
特別性の誘惑に気をつけておこう
「家族よりもクライアントに優しい専門家」
自分の善意・好意という罠
愛という名の正しさ
犠牲の観念を終わらせる知覚の仕方を学びたい
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2010/7/9

みんなで発展した!神の愛と、エゴ版の愛

特別性の誘惑に気をつけておこう

ともしび仙人
今回もとても参考になるお話をわかちあっていただき、
MASATOどのには心より感謝を

今回の「質問433」も、
「愛」の名を利用した巧妙な「分離の信念を維持するトリック」を、
わたしたちにわかりやすく認識させてくださっていますじゃね。

こうじうさぎ
今回のトリックも、とても理解できるでしゅよ。



引用:
「質問433」
あなたの本の中で、あなたはコースの生徒が、
もしその人のパートナーが「霊的に同じ考えを持った人、
すなわちコースの生徒」であることに拘るなら、
特別性の罠に陥るであろうと述べています。

今、私はそのことが分かっています。
けれども、その人もまた同じプロセスを経験してきて、
私が奇跡のコースや赦しというものを共に分かち合える
恋人を持つことは、どんなに素敵なことでしょうか。

自己発見の道はとても面白く、
その結果、自分がとても多のことを学んでいるので、
私は、心が狭く、けちで、霊的な概念をもっていないと
自分が見なしている人々とデートをすることが不可能で
あると感じています。
 
こうじうさぎ
同じ自我として、「自分で天国を作りたい」というお気持ちは、
たしかに理解できるでしゅよ。

実際、ボクも「特別性の誘惑」の様々な形態に駆られたことはあったし、
これからも油断なく注意して自分の心を見張っておくつもりだし、
また、外側にも特別性の誘惑に駆られた人々や団体なども見てきたでしゅ。


今のボクが、特に気をつけて「学習の機会」とさせてもらっていることは、
特別性の誘惑に駆られているそういう人たちを見かけたときに、
「この人たちを自分から分離しているとは見なさないようにしよう」
という大事なレッスンでしゅね

さもないと、ボクはその人たちを「愚か者」だと見てしまうかもしれない…
ワプニクしゃんがおっしゃっているとおり、「敵意」を引き起こすことは
避けられないだろうから。

それは、「心の平安を目指す」という、
ボクたち学習者の究極の目標とは正反対のことでしゅよね。

ともしび仙人
ここでは、この世界における「違い」というものを、
どのように見るように自分の「見方(解釈の仕方)」を変えるか――
自分の見方から聖霊の見方への移行――それを学ぶことが、
本当に重要なポイントなのですじゃね

こうじうさぎ
うんうん。

ともしび仙人
この世界――自我の思考体系においては、
自我を象徴化したおたがいの見せかけの形態に「違い」があることで、
そこに「特別性」を見出し、おたがいにバラバラである「分離の信念」の
論拠としていますじゃ。

この「違い」こそが、この世界での愛や憎しみや優劣の根拠ですじゃ。

特別に愛する仲間だけを自分のうちに引き入れ、
それ以外のものは無意識のうちに排他することで、
自分の天国や幸せ(自我の王国)を作ろうとする…
この解釈の仕方はここでは説明するにも及ばない、
よく知られた思考体系ですじゃね。

こうじうさぎ
そうでしゅね。

ともしび仙人
その反対に、聖霊は、
「違いには意味がない」と知っていますじゃ。
いかなる違いであれ、ね。

なぜなら、錯覚は大きい錯覚であれ、小さい錯覚であれ、
全部同じ「錯覚」だからですじゃ。

こうじうさぎ
大きいゼロも、小さいゼロも、全部同じ「ゼロ」でしゅよね。

ゼロを描いた道具や言語や書体によって、
その価値に違いがあるわけなどないものね。


それをこの世界の見方に置き換えるなら、
大きな才能と功を成した自我の形態も、
まったく平凡で何事もなく過ごした自我の形態も、
はたまた大きな犯罪を犯した自我の形態も、
み〜んな「自我は錯覚である」、という点において、
まったく価値に違いなどないのでしゅね。

でも、自我の思考体系においては、
前者の自我の形態なら「特別な愛」に値し、
後者の自我の形態なら「特別な憎しみ」や無関心に値する、
と解釈するでしゅ。

錯覚の違いに価値判断を下すことで、
錯覚を現実に留め置く信念から抜け出せなくしているわけでしゅね。

ともしび仙人
聖霊は、わたしたちをみな均一に見なしているのですじゃね。

違いが存在するのは、自我の夢の中だけですじゃ。

その夢の外から「神の一人子」を見ている聖霊にとって、
夢の中での形の違いなど何の意味もないですし、
その違いはただただ、
わたしたちに新たな見方を教え直すことを可能とする
「知覚できる学習媒介」としてのみ
、意味を見ていますじゃ。

ですから、奇跡のコースについても、
「この道は特別だ」などと言わないのも当然のことですじゃね。



引用:
そのレッスンは親密なパートナーが居ても居なくても、
またパートナーが居たとして、
その人が霊性に熱心であろうとなかろうと学ぶことができます。

あなたにとって奇跡のコースの生徒であるという、
その中身と共に過ごすことへの最も効果的な手段は、
ほとんどの時間をコースの生徒ではない、
あるいは霊的に興味すらない人々と交際することもあり得えます。
 
ともしび仙人
ここは本当に重要な認識ですじゃ。

自分がかつて「違いがある」と見ていたところで、
「違いなどない、均一だ」と見るように解釈の仕方が聖霊のものに変わること――
それが「奇跡」と呼ぶものなので、奇跡を学ぶこのコースを実践していく上で、
コースには何の関心もない霊的興味すらない人たちと過ごすことこそが、
もっとも効果的な学習であるケースはまったく珍しくないと思いますじゃ。


要は、自分の「特別性(優越心)の誘惑」には充分に気をつけておきましょう、
ということですじゃね

特別性を求めることができるのは、
常に自分が「不足している」と信じているときだけなので、
そのことに気づいていれば、
特別性を求める自分の願望は「分離の信念」を選択したことから来ていて、
その信念と選択を真理から防衛するためだ、ということがわかりますじゃ。

本当に問題なのは「不足」ではなく「分離の信念を選択していること」であり、
その解決は「埋め合わせ」ではなく「分離の信念の取り消し」ですじゃ。


そのことに本当に気づいていれば、
自分がどのようなパートナーを持つべきかとか、
どのようなことをすれば幸せになれるか、などという、
本当の解決とは何の関係もない形態に執着する意味は
感じなくなるのではないでしょうか

形態については現状与えられているものだけで満足して、
「もっともっと」という不平不満や欲を感じることはないはずですじゃ。

世界から自分が得るべき意味は、
新たな見方と真の解決を教えようとしている聖霊だけに求めることでしょう。
このお話に愛をわかちあう


2011/11/27

みんなで発展した!神の愛と、エゴ版の愛

「家族よりもクライアントに優しい専門家」

皆様こんばんは。


さて、コースを実践していく上で、赦しを普遍的に適用するというのが目標の一つだと
思いますが、私たちの中にある「この人は赦すが、あの人は赦さない」という傾向について、
ケネス・ワプニック著『Parents and Children Our Most Difficult Classroom』から
参考になる話がありましたので、そちらのQ&Aを引用させていただきます。


このQ&Aの質問者の状態は、形としては珍しいかもしれませんが、その中身は
無数に形を変えて、いたるところに見受けられるものだと思います。



引用:
「家族よりもクライアントに優しい専門家」


質問者:
私は児童虐待の分野、時には人間のくずとして見られている人々に対して
仕事をしています。

私はそうした虐待者に対して非常に愛情深くなれますが、しかしそれから
家に帰り、そこで私のかわいい娘と、最も素敵で忍耐強く、愛に溢れた
魂である夫、彼らに対しては殺人的な思考が浮かんでくるのです。

振舞いの上では、私は夫に対して優しく接しますが、時々彼に対して
本当に申し訳ないという気持ちになります。
それは自分に彼を殺したいという意図があることを知っているからです。
その上、私は絶えず自分が劣っていて、足りないところがあると考えています。

他に私と密接な関係にある私の娘が、頭痛の種です。娘はいくつかの問題を
抱えていて、一日に十回も私を呼びます。
私は時折娘を海に投げ込んでやりたくなります。

しかしながら、私は自分のクライアントに対してはとても愛情深いのです。
他人であり、自分の子供を虐待したり性的に乱暴したりする人たちに。
私は彼らに対しては非常に理解があり、忍耐もありますが、私の人生における、
他のあらゆる人間は心配の基なのです。


答:
あなたの状況は殆どあり得ないケースとは言えません。
私たちはここでは赦し、そこでは赦さないということができるように
自分の人生を分割する傾向があります。
そしてあなたが戦いに敗れる(分離している)限り、もしあなたが
戦いに勝つ(赦す)ことが少しあったとしても、自我は気にかけません。

あなたは巧妙に分離という自我の思考体系を維持してきました。
つまり自分はここで、こうした人々――彼らが地球上のくずであっても
――を赦しているが、あるレベルでは自分が愛し、大事にしている
自らの家族は赦すことができない、というように。

興味深いのは、あなたは被害者よりも加害者の方に、より一体感を持って
いるように見えることで、それが分離の感覚を促進しているということです。
加えてそうしたことがあなたを、そのような「酷い」人々に我慢できない
他の同僚の殆どと分離させます。言うまでもなく社会に対しても。
それからあなたは自分の人生の一部をあなたの個人的な人生から
分離させているのです。

そのようにして自我はすべてに勝利します。
そして自我はあなたが親切であるからといって、そのことを気にかけません。
というのも、その優しさは見かけどおりのものではないからです。
その究極の目的はあなたを他者と違うものにすることであり、
それは「祈りの歌」からの一節を用いれば、「破壊するための
優しさ(kindness-to-destroy)」と呼ぶことができます。

もしあなたがもう少し詳しく見てみれば、あなたと加害者との関係が、
あなたと彼らを分離させているということも理解するでしょう。
それはあなたが特別性と手を結んでいるからです――それは彼らに
優しくあるべきではないとか、理解すべきではないという意味ではなく、
彼らは単にあなたの自我による分離というゲームの駒に過ぎないからです。


質問者:
私は彼らに対して優越感があります。


答:
そうです。彼らが何をやってきたかということや、どういった人間かということで、
彼らは優しさには値しないけれども、そうでありながら、あなたは彼らに優しく
しているのです。

自我の視点から、こうしたことがどれほど完璧に作用しているのかを理解することは
助けになります。しかしそうした自分自身を変えようとはしないで下さい。
そうではなく、どれほど自分の人生が分離に基づいているのか――たとえあなたが
とてもうまくいっていると考えている仕事であっても――そのことに気付いて下さい。

もしあなたが職場で自分と被害者や加害者、そして同僚との関係を見始めるなら
――そしてその特別性をあるがままに見るなら、そのことがあなたが家庭で
より優しく、より愛情深くなることを助けるでしょう。
それは投影する罪悪感がより少なくなっているからです。

そしてあなたが仕事中に感じる罪悪感――神の子全体を良い、悪いと分割する
ものである――それがあなたを家庭において酷い人間させているのです。

(『Parents and Children Our Most Difficult Classroom』part two P34〜36)

 
このお話に愛をわかちあう


2011/11/28

みんなで発展した!神の愛と、エゴ版の愛

自分の善意・好意という罠

ともしび仙人
「神の愛と、エゴ版の愛」というこの重要な話題、
約1年ぶりに新たな例で学び直す機会をいただき、感謝いたしますじゃ。

こうじうさぎ
さすがはMASATOしゃんでしゅ。

すごく巧妙なので普通は見逃してしまいがちな愛の名を騙った分離について、
しっかりと意識し直して自分自身を振り返るために参考になったでしゅ!

ワプニックしゃんにも、ここでの質問者しゃんにも、
適切な例と学習機会を世界にわかちあってもらって等しく感謝でしゅ


ここでわかちあってもらった質問者しゃんの具体例は、
一見とても個人的なものに見えるけど、
その根本にある思考体系は、自我としてのみ〜んなが共有している、
自分自身の心を深く振り返るためにとても役立つものなんじゃないかな


この質問者しゃん(児童虐待専門カウンセラーなのかな?)は、
加害者(クライアント)がやったことは現実だと信じたまま、
彼らには思いやり深くあることで、彼らに対して優越感を持ったり、
また、彼らに対して思いやり深くなれない同僚に対しても、
優越感を持つことに成功しているのでしゅね。

まさに、思いやり(愛)を利用して、優越感(分離の信念)を保ってる…

なんという巧妙さ!


でも、この自分の心理的状況を否認することなく、
率直さでもってきちんと気づいているお二人は聖霊の助けを得ていると思うし、
間違いなく「新しい見方」を学んでらっしゃると思うのでしゅねスバラシィ!!

ともしび仙人
まったくですじゃね。

こうじうさぎ
そこで、ここでわかちあってもらった例をボク自身にも当てはめてみようと、
日常のなかで振り返って、じーっと自分の心理を観察していると……

あったあった!

ボクにも、率直に認めて訂正すべき心理が、見つかったでしゅよ。


例えば、何らかの事件を起こして世間一般的にニュースなどで非難・攻撃
されている人や団体や国に対して、ボクは彼らを心理的に擁護することで、
「同じ人類を義憤きどりで非難・攻撃している人々は思いやりが足りない、
その狭量さは、見ているこっちが恥ずかしい」などと、人々の愛の欠如の
形態をそのまま現実だと見なして、非難する人々と自分を無自覚のうちに
「分離」していたのでしゅね。
(分離の心理に気づけるサインは、自分自身の感情の種類に現れている)

それに翻って、加害者を非難せず、それどころか寛容で、
思いやりと慈愛の目で彼らを見ているボクはこんなに優しいぞ、と…
これって優越感(違いがあるという信念)でしゅよね。

なんという巧妙さキャー


これって、本当に優しいわけでも慈愛深いわけでも何でもない…
単に、自分の分離の信念を保つために役立つから利用しているだけの、
分離というゲームの駒として彼らを見て扱っているだけだったのでしゅね

(まさに、“forgivenness-to-destroy”――愛の意義を壊すための赦し)

改めて、自我の巧妙さといい、浸透具合といい、すごい!!


上の質問者しゃんの例をわかちあってもらえなかったら、
特に意識されてもいなかったことだから、全然気づけなかったでしゅよ。

自分の無意識の心理的状況や、分離への密かな流れについて、
ものすごく「ハッ」とさせてもらえたでしゅ。大感謝(^人^)

ともしび仙人
原始から無意識に抑圧され、
押し隠されてきた「分離の信念」がまた一つ、光のもとに差し出され、
その正確な理解とともに修正の機会を得られたのではないでしょうか。

こうじうさぎ
うんうん。

本当にありがたいでしゅよね…
心がまた一つ洗われ、無限の平安に近づく思いでしゅ


結局、自分のどんなに善意や好意に見えるような意志や行為であっても、
それを自分で利用するなら、間違いなく自我が利用しているだけ…
つまり、まったく無自覚に「分離の信念」が保たれているだけなのでしゅね。

善意や好意って、その「形態の見た目の良さ」こそが、
自分自身をだます最大のトリックなのかもね。


奇跡のコースでも、
『特別な愛の関係は、自我がもっとも自慢する贈り物』
『(贖罪に対して)あなたの善意だけではまったく充分ではない』

と言ってるし、でも同時に、
『しかしあなたの意欲(分離を取り消したいという決意)だけは
全面的に信頼しなさい』

とも言ってるでしゅ。

ともしび仙人
その通りですじゃね。

もちろん、善意や好意自体に善悪があるわけではなく、
自分の優しさや思いやりを引っ込める必要はないですじゃ。

ただ、その形態の見た目の良さにうっとりとして、
「自分で価値判断を下している」
「そのことに無自覚である」

――であるなら、問題なのですじゃね。


自我は見た目の良さで、心を「分離の魅力」に引き留めようとしますし、
聖霊は、「見た目には意味など何もない」と教え直すことで、
「中身」を取り戻させますじゃ。

実際、すべての形態あるもの(知覚されるもの)は、
中身(神の愛――我々の真の自己)を覆い隠すための錯覚なのですから、
それを見過ごせることを学ばなくては、中身は見えないままですじゃね。
このお話に愛をわかちあう


2011/11/29

みんなで発展した!神の愛と、エゴ版の愛

愛という名の正しさ

こんばんは。


今回のQ&A中で、もう少し掘り下げてみたいと思ったことがあり、
それは下記の部分です。

引用:
興味深いのは、あなたは被害者よりも加害者の方に、より一体感を持って
いるように見えることで、それが分離の感覚を促進しているということです。

 

今回の質問者の方は、自分の心の状態をしっかりと見られていましたが、
これは、特に自我の罠に嵌りやすい所だと思います。

なぜなら、コースに限らず、様々な教えにおいて、「愛を出すことは正しいことだ」と
考えてしまう可能性があるからです。


例えば、

引用:
加えてそうしたことがあなたを、そのような「酷い」人々に我慢できない
他の同僚の殆どと分離させます。言うまでもなく社会に対しても。
それからあなたは自分の人生の一部をあなたの個人的な人生から
分離させているのです。

 
この場合では、
「私は彼(加害者)を赦し、愛を与えているのに、同僚たちは彼を攻撃しようとする。
彼を赦し、愛せばいいのに何故攻撃しようとするのか。これは愛のない同僚たちの方が
間違っている」というように考え、しかもこのことを愛の名のもとに正当化してしまう
可能性すらあります。これが周りとの分離を促進するものだとしても。


しかし、赦しというのは普遍的なものであって、赦しの対象に全ての人(物でさえ)が
含まれているのでなければ、真に赦しているとはいえません。

要するに、自分が誰かを赦したと思っても、それで他の人との不調和を感じるなら、
結局のところ、それは誰も赦していないのです。

※これは目に見える形のことはなく自分自身の心の中の話です。
赦したからといって調和した形(この場合は加害者と同僚が仲良くする等)が
現れるとは限りませんし、そうなる必要はありません。


そしてワプニック博士が、彼らに優しくしたり、理解しようとしている質問者に
対して「加害者は、あなたにとっては分離というゲームの駒に過ぎない」と
指摘されているのはそのためです。本当は加害者を赦してはいなかったからです。
(質問者も彼らに対する優越感に気づいていて、それを正当化しようとしないのは
さすがコースをしっかり学習されているなと思いました。)


何だがとりとめのない内容になったような気がしますが、
「愛の名のもとに愛のない人間を裁く」という矛盾した状態は、私も経験が
あり、それを正当化できると信じる自我の策に嵌ってしまいがちなので、
何かしら役に立てるかもしれないこともあるかと思い、今回書かせていただきました。
お話ありがとう♡
愛という名の正しさ  目次
このお話に愛をわかちあう


2011/12/25

みんなで発展した!神の愛と、エゴ版の愛

犠牲の観念を終わらせる知覚の仕方を学びたい

こうじうさぎ
このMASATOしゃんのお話には、
自分自身の心のあり方を振り返るところが多々あって、
とてもとても役に立ったでしゅよ!

日々の生活のなかで生じる自分の想念について、
以前よりもさらに注意していられるようになったでしゅ。

どれほど自分が無自覚に、また形を変えて巧妙に、
「分離を維持する想念」を合理化して思考に組み込んでいたことか…
気づけば、それはもうビックリするほどでしゅね


でも、そうやって「気づいて」いれば、
つまり無意識のうちに隠したり、形を変えてわからなくしたりするのではなく、
きちんと意識の上に、ありのままの形で置いておけば、
「分離の信念を一つ残らず取り消すぞ! 心の平安を永続なものにするぞ」と
すでに決意しているのだから、心の中で訂正の役割を担う正気(聖霊)が、
その訂正された見方やヒントをもたらしてくれるでしゅよね


んでね、
ふとテキスト第4章の「II. The Ego and False Autonomy」を見ていると、
「思いやり」とか「慈愛深さ」とか、自分で解釈する「寛容さ」について、
改めて思い直すところがあったのでしゅ。


A Course in Miracles奇跡のコース
真に慈愛深くなることができるのは、自分は本当に豊かであると、
その感覚を永続して持っている者だけである。

Only those who have a real and lasting sense of abundance
can be truly charitable.

T-4.II.6:1

こうじうさぎ
ゴビーン!

…自分は、「本当に豊かである」と、
その感覚を“永続して”持っているだろうか…?

ボクの場合は、まだまだ「No」でしゅね。

だから今のボクでは、真の「慈愛」や「思いやり」なんて、
理解できるわけがないのでしゅ。


豊かさの感覚を本当に、そして永続して持ち続けることができる人は、
「犠牲が存在する」という自我の特徴的な見方から、
完っっっ璧に抜け出すことができた人だけなのではないかな。

犠牲というものはまったくどこにも存在しえない、と。

率直なところ、
ボクはまだ自我(self)と自己(Self)の同一視が訂正されていないから、
したがって、「犠牲になりえる」という見方もしているでしゅ。


A Course in Miracles奇跡のコース
与えることと犠牲になることを結びつけているとき、あなたは、
「何らかの手段で何かより良いものを獲得することができる」、
または「その与えるものは自分にとって無くても構わない」と
信じているがために与えているにすぎない。

When you associate giving with sacrifice,
you give only because you believe that you are somehow getting
something better, and can therefore do without the thing you give.

T-4.II.6:4

こうじうさぎ
「与えること」=「自分の持ち分を失う(犠牲になること)」

この二つを結び付けているのはこの世界では常識かもしれないけど、
自分もこのように見なして知覚している限り、
「真の慈愛」とは何なのか、「思いやり」とは何なのか、
本当は誰も理解すらできないはずでしゅ。

50円で仕入れた商品を100円で売る、というようなわかりやすい例だけでなく、
純粋なボランティア行為などでさえ、
その行為によって自分は良い人になった気分がするとか(一時的に)、
寛大になった気分で優越感がそそられるとか、
自分の無価値感や空虚感から救われたような気がするとか、
他の人たちに自慢できたり賞賛されたりするとか、
必ず何らかの「より良いもの(救い)」を獲得できると信じているから、
与えているにすぎないのでしゅよね…
「犠牲」という見方を信じている限りは。

ただ、そこまで率直に認めないだけでしゅ。


A Course in Miracles奇跡のコース
「獲得するために与えること」は自我の避けられない法則であり、
自我は常に他の自我との関係の中で自分自身を評価している。

'Giving to get' is an inescapable law of the ego,
which always evaluates itself in relation to other egos.

T-4.II.6:5

こうじうさぎ
つまり誰だって、
自我の見方「犠牲になることは可能だ」という信念を持っている限り、
「何かを与えるのは、その代わりに別の救いを獲得できるため」
でないと、無条件で与えることなんてできるわけがないのでしゅ。

これは善悪の問題ではなく、偽善などでもなく、
単に「恐れ」と「防衛」の問題でしゅね。


では、ボクたちは自分自身に「どのような救い」を獲得するために、
与えているのだろうか…?


引用:
自我は常に他の自我との関係の中で
自分自身を“評価”している

 

これは、ぜひとも覚えておきたい自我の法則でしゅ

ボクたちが自分自身にどのような救いを獲得したいがために
与えているのかといえば、それは「評価」でしゅ。

自分の自我に対する評価。

自己評価であれ、外側からの評価であれ、同じでしゅ。

それも、できうるならどの自我よりも高い評価を。


『他のどれよりも高く評価される自我になって、
この不安定な空虚さや無価値感や恐れから救われたい…
また、過去の悲しかったことや罪や劣等感に対して報いたい…』


その隠された願いのために、他の自我と関係を持ち、
その「比較される関係性」の中で、より良い評価(自我の強化・拡大)を
獲得するためにのみ、この世界でボクたちは与えているのでしゅね。

つまり、
「自分の救いのためには、分離・欠乏した他の自我が必要不可欠だ」
というわけでしゅ。

繰り返すけど、これは別に悪いことではないでしゅ、
「犠牲になる」ということを信じている限り、防衛の当然の結果だから。


A Course in Miracles奇跡のコース
したがって、自我は絶えず欠乏を信じることに心奪われており、
その欠乏の信念こそが自我を生じさせたのである。

It is therefore continually preoccupied with the belief
in scarcity that gave rise to it.


他の自我を現実と見なすような知覚はすべて、
「自我は現実だ」と自分自身を納得させるための試みでしかない。

Its whole perception of other egos as real is
only an attempt to convince itself that it is real.

T-4.II.6:6

こうじうさぎ
これは、もんんんのすごく巧妙なことだし、
ボクたちには恐れ(愛を切望する声)とそれに対する防衛があるだけで、
悪意(悪意というのは自我の見方)などまったく存在しないのだけど…

自分の「分離の信念」、欠乏を信じていることは一切変えることなく、
その信念から生じた空虚さや無価値感から自分を救うために、
自分の自我を特別に高く評価するために役立つような他の自我を必要とし、
つまるところ自分自身が「分離」と「欠乏」を必要としていたのでしゅ

これは、初めて知ったときにはショッキングなことでしゅよね


例えば、弱者に対する一見純粋に見える慈善的・親愛な行為でさえ、
もしその人がまだ自分は犠牲になれると信じているままなら、
他の自我を愛したり救ったりしている見せかけの格好はできても、
悲しいかな、本当は愛しても救ってもいない…

なぜなら、自分の自我を特別に高く評価して救うためには、
自分以外の、分離して欠乏している他の自我が必要不可欠で、
それを求めているのは自分自身の自我の救いのためだから、でしゅ。


もうちょっと簡単に言い換えると、
自分が「善」でありたいと望むなら、比較のために必ず「悪」を、
自分の人生の舞台に知覚する必要がある、ということでしゅね。

これは、ワプニックしゃんもおっしゃっている通り、
他の自我は自分の分離というゲームのために必要とした「駒」なのでしゅ。


A Course in Miracles奇跡のコース
自我は文字通り「比較すること」によって生きている。
The ego literally lives by comparisons.

「均一であること」は自我の理解を超えたものなので、
慈愛深くなることは不可能である。

Equality is beyond its grasp, and charity becomes impossible.

自我は決して豊かさから与えることはない、なぜなら、
その自我が豊かさの代替品として作られたものだからである。

The ego never gives out of abundance,
because it was made as a substitute for it.


それゆえに、「獲得する」という概念が、
自我の思考体系に生まれたのである。

That is why the concept of 'getting' arose in the ego's thought system.
T-4.II.7:1

こうじうさぎ
自分は犠牲になれる(傷つくことが可能だ)と見なしている限り、誰も、
真に他者に優しくなることも、思いやることも、愛することも、
そういう体験は不可能なようでしゅね…。

自我自体が、豊かさへの攻撃として作られたものであるなら、
どうして自我が真の意味での慈愛や思いやりや、均一であることなどを
理解したり認識したりできるだろう?

まったく不可能なことでしゅ。

少なくとも、この自我としての自分は真の自己(神の子)とは何の関係もない、
だから今自分が信じている慈愛や思いやりなどもすべて誤解されたものだし、
真の自己の意志とは何なのかをたずねる意欲を心底から持つという、
「新たな知覚の仕方」に対して率直に胸を開くまでは、
何も始まらないと思うのでしゅ。


A Course in Miracles奇跡のコース
「知覚の仕方は他にもある」と信じることは、
自我が思いつくことが可能な想念の中では最も高度なものである。

Belief that there is another way of perceiving is
the loftiest idea of which ego thinking is capable.


それは、「自我が真の自己ではない」という
認識のきっかけを含むからである。

That is because it contains a hint of recognition
that the ego is not the Self.

T-4.II.4:10

こうじうさぎ
「知覚の仕方は他にもあると信じること」

ほんとにそう

誤った知覚の仕方をしている自我としての自分が可能な範囲内では、
これ以上に優れた信念など一つもないでしゅ!

「知覚の仕方は、今自分がしているもの以外にもある」

この思いは確かに、自分という存在の焦点の切り替え(selfからSelfへ)
のきっかけとして、大いに役立つと思うのでしゅよ。

ともしび仙人
ワクテカで全裸待機ですじゃ。

こうじうさぎ
…じじい、突然出てきたと思ったら、何言っとるでしゅか。

まあ、確かに、「知覚の仕方は他にもある」と信じたら、その次には、
確かに現れると信頼して、それが疑いもなくはっきりとわかるまで、
「待つこと」が重要なポイントになるでしゅよね。

当面は、自分の古い知覚の仕方(自我による救いの判断、利害や善悪や
好き嫌いなど)に捉われていて、その影響は否定できないだろうから。


どのみち、「訂正」のきっかけは、
本気の本気で望んだならば、いつか間違いなく心に現れる…
心の見方が 『ハッ と180度切り替わる瞬間が、
確かに起こるのでしゅよ。

例えば、長年嫌悪してきた人へのわだかまりが一瞬で氷解したりとかね。
(これは自分の「寛容」によるのではなく、ただ「焦点」が切り替わったため)


ヘレン・シャックマンしゃんを始め、霊的なヒントを得た人たちってみんな、
それがもたらされる前に必ず「切に望んでいる」でしゅよね。

「もっと別な見方で見たい!」と、ただ“決意”しただけなのでしゅ。

だから、ほんの一瞬でも正気を受け入れることが可能になったのでは
ないかな。


それはボク自身にも思い当たる経験が何度もあるし、
いつ・どのように訂正のきっかけが現れるかは決して予測もしないけど、
ただ、願えばいつだって現れることだけは確信しているでしゅよ。

だって「正気」って、
ボクたちがどんなに自我と自己を混同して闇の中でさまよっていようとも、
心の中でいつまでも呼んでいる、“神への帰り道に導く光”なのだから。




(心の中で)
お願いします、
どうぞ、これについて別の見方を教えてください

 
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神の愛と、エゴ版の愛 (3)』
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A Course in Miracles(奇跡のコース,奇跡講座)関連書籍のご案内

ともしび茶屋にてよく話題にされている「奇跡のコース」について、
ご関心をお持ちの方々のために、奇跡のコース本書とその関連本を集めてみました。

本かその書名をクリックすると、ともしびブックスのクチコミページへ、
[情報を見る]にカーソルを合わせると、Amazon.co.jp での現在の価格情報などを
ご覧いただけます。

奇跡のコース本書

 
奇跡のコース 第1巻 テキスト 奇跡のコース 第1巻 テキスト  [ 情報を見る ]
2010/12
英語の原書「A Course in Miracles」が出版されて以来35年、長年待ち望まれてきた初の邦訳本です。
この本に収録されているのはテキスト編のみですが、それでも千ページ弱もある非常に厚い本です。
この本は、米国FACIMの監修とFIPの認可を経ていないナチュラルスピリット社独自の「非公式版」ですが、文体が優しいので読みやすく、また現在テキスト編を日本語で読める唯一の本でもあります。
奇跡講座 ワークブック編 奇跡講座 ワークブック編  [ 情報を見る ]
2011/12 
FACIMの正式な監修とFIPの認可を経た、中央アート出版社による初の「公式邦訳本」です。
邦訳は、上記テキスト編が1年前に出版済みである経緯や、日本出版業界の特殊な事情もあり、まずは提供可能なワークブック編からの出版となりました。
数年以内に、マニュアル編とテキスト編も出版される予定です。
公式版は、翻訳者がコースの正確な解釈を学び理解した上で、注意深く充分な時間をかけて精査されているので、日本語でコースを読むときにはこちらをおすすめします。
A Course in Miracles A Course in Miracles  [ 情報を見る ]
1996/3(第2版)
英語版のコース原書です。
「テキスト」「ワークブック」「マニュアル」の三編全部入りにも関わらず、邦訳版よりも安価に購入できます。
英語が読める方や、英語を学習される方には、本書をおすすめします。
本書は比較的平易な単語とリズムある文章の繰り返しによって構成されているため読みやすく、無韻詩作品としての完成度にも感嘆するかもしれません。
関連本編(日本語のみ)

奇跡講座入門 奇跡講座入門  【まず最初の一冊目に】  [ 情報を見る ]
2011/7
コース編者ケネス・ワープニック博士による、コースの入門書です。
わかりやすく簡潔でありながら過不足なくコースの全体像をカバーしており、現在日本語で入手できるコース関連本のなかでは最高の一冊だと思われます。
コースとその主題を誤解釈することなく学ぶために役立ちますので、まずはこちらを精読してから、次いで上記コース本書にお進みになることをおすすめします。
天国から離れて 天国から離れて  【中級者以上に】  [ 情報を見る ]
2010/8
コースを聞き取り著述したヘレン・シャックマンの伝記の形を取って、時系列でコース成立とその後について解説しています。
コース本書には未収録の記述も多数収録されており、参考書の中では最も重要な一冊だと思われます。
特にコースは本来、ヘレンとその周辺の人々に向けて送られた個人的メッセージの側面も強く、そのことを理解しておくと、コースやイエスを特別な偶像としたくなる自我の誘惑を回避するのに役立つかもしれません。
また、『祈りの歌』聞き取り直前の記録には、非常に重要な「聖霊への尋ね方」が解説されています。
さらに、イエスと聖霊の実相(無形の愛)とは何であるのか、それに対してへレンが形態として提供した役割とは何であったのか、ケネス・ワープニックの洞察の鋭さには目をみはるものがあります。
神の使者 神の使者  [ 情報を見る ]
2007/1
かつてわたしたちと同じようにコースを学び、ついにこの世界の輪廻から卒業した二人のきょうだいが著者のもとにやって来て、コースを教えながら導くという異色の本です。
エンターテイメント色が強いため間口が広く、この本の出版を機に日本でもコースの学習人口が大きく増加しました。
しかも、コースの教えの中心である「赦し」については一切の妥協がないため、ユーモラスな雰囲気を楽しみながら横道に逸れることなく学べる、非常に興味深い本です。
2008/6 に続編「不死というあなたの現実」も出版されました。
愛への帰還 愛への帰還  [ 情報を見る ]
1998/10
コースを日本で紹介した、おそらく初めての本です。
内容的には、著者の主観で多少コースの本道から逸れている箇所も見受けられるものの、コースを学ぶことによって人生の苦難から救われたという著者の体験談のわかちあいには、大変に勇気づけられるものがあります。
2009/8 に続編「人生を変える奇跡のコースの教え」も出版されました。
※類書:「天国への目覚め」 2010/11
聖なる愛を求めて 聖なる愛を求めて  [ 情報を見る ]
2001/1
上記「愛への帰還」と類似点の多い本です。
特に、コースの教えのうち<特別な愛憎の関係>から<聖なる関係>への変容を主題としています。
※類書:「パラダイス」 2010/9
お話を聞いてくださり、ありがとう♡


 
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ひとつに結ばれている神の子の全きょうだいに、平安がありますように…☆


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